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奴隷労働は重要性を持たず

北アメリカ大陸に黒人が奴隷として連れてこられたのは、1619年にオランダ商人が黒人奴隷をバージニア植民地に売ったのが最初であった。だがその後半世紀、奴隷労働は重要性を持たず、法的な整備もなされていなかった。黒人奴隷は単なる無期限の契約奉公人として扱われ、プランテーションでは主要な労働力を年季契約奉公人に依存していた。1680年に4万4000人の人口を持っていたバージニア植民地には1万1000人の年季契約奉公人がいたが、黒人の数は3000人に過ぎなかった。

バージニア植民地で黒人奴隷の輸入が増え、奴隷人口が目立って増加し始めたのは1680年代からであった。1720年には黒人奴隷の数は総人口6万6000人のうち1万3000人を占めるようになった。バージニア植民地において労働力の供給源を白人の年季契約奉公人から黒人奴隷に切り替えたのは、ベイコンの反乱がきっかけであり、奴隷労働に依存するほうが社会的安定が保たれると考えたからである。

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奴隷人口の増加が顕著になってくると、各植民地では奴隷に関する法規が整備され、法的にも確立した制度となった。バージニア植民地では1657年に黒人の年季奉公人に関しては「年季の追加をもってしても損害の賠償は不可能」と定められたが、これは1740年代から慣習となっていたものを確認したものであった。また1661年に、黒人女性の生んだ子供の身分は父親の身分にかかわらず奴隷の身分を受け継ぐことが明文化され、1667年には奴隷が洗礼を受けても自由身分となることはできないと定められた。

その後次々に奴隷に関する法規が作られ、1705年には包括的な奴隷法が制定された。この法律はそれまでの慣習を集大成したもので、既にバージニア植民地における奴隷制に確固としたものになっていた。奴隷に関する法規は奴隷の身分を規定するだけでなく、奴隷を管理することを目的とするようになった。1723年には労働や礼拝以外の目的のための奴隷の集会を禁止し、逃亡を重罪とし、暴動を謀議したものを死罪と定めた。

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2009年04月30日 11:46に投稿されたエントリーのページです。

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